0mg

「死にたい」と言ったら怒られた話

どうも、こんにちは。0mgです。

きっとこの記事を読んで下さる方の中には「死にたい」で検索した方もいらっしゃると思います。

 

死にたい。

 

誰しも一度は思ったことがあるのではないでしょうか。

もし、一度もないという方は今後も死にたいなんて思わずにしあわせに生きて欲しいものです。

 

死にたい。

希死念慮、とも言います。

具体的な策を考え検索し準備をしている方も居れば、リストカットオーバードーズなどでなんとか凌いでいる方も居ますでしょう。

しかしこの死にたいからはどうやっても逃れられない。

 

苦しいです。とても。

 

何をしても、何処に居ても死にたいと思ってしまう。

 

わたしは今自動車学校へ通っているのですが、この死にたいのお陰で運転練習の時わざとアクセルを踏んでしまうのではないかという予期不安でなかなか行けていません。

死にたいのに死ぬのが怖い。矛盾しているでしょうか。

 

 

本題へ入ります。

わたしはこれまで約7年間は「死にたい」と思い続けてきましたが、一度だけ親にその言葉を発したことがあります。

オーバードーズし、救急外来で運ばれ点滴を受け、医者に「どうしてこんなことをしたんですか?」と聞かれた時。

当たり前ですが死にたいからですよね。

だから「死にたかったからです」とはっきり答えました。朦朧とした意識の中で、そこだけは鮮明に覚えています。

 

その後、家に帰ってから母親に怒られました。

 

「まだ若いのに」

「死にたいなんて」

 

確かこのような言葉だったと思います。

 

若ければ必ず生きたいと思えるのか?

そう、思いました。

 

死にたいという言葉はあまり使ってはいけない言葉なのだと思います。

特に大切な人の前では尚更。悲しませてしまう。

でも、大切な人だからこそ、知ってほしい。

この苦しみを、死にたいと思うほどつらいということを。

これって我儘でしょうか。

 

わたしは例え大切な人から死にたいと言われても、きちんと話を聞いて死なないで欲しいという勝手なお願いをすると思います。決して怒ることはありません。

寧ろ怒ったら逆効果な気がします。

「ああこの人はわたしのことを理解してくれないんだ。もうこの人にこの手の話を話すのはやめよう」

そう思います。わたしなら。

 

ただただそうなんだ、つらいねって、聞いてくれるだけでいいんです。

アドバイスも何も必要ありません。

ましてや怒ったり感情的になられたら余計に死にたくなります。

 

簡単には言ってはいけない言葉だけれど、打ち明けるということはその人への信頼感が大きいからだと思うんです。

 

だからどうか、死にたいと言われても感情的になったり怒ったりしないでください。

聞いている側は苦しいかもしれませんが、話って聞いてもらったら案外スッキリすることもあるでしょうし、ただ聞くだけでいいんです。どうかお願いします。

 

 

 

今回は簡略なブログになってしまいましたが、死にたい気持ちを抱えて生きる人達が少しでも吐き出せる人や場所があればいいな、聞く側も怒ったりせずに聞いてほしいな、という思いで突発的に書きましたのでご容赦ください。

 

 

わたしのTwitterでもブログのコメントでも、死にたいという気持ちを吐き出す場所に使っても良いので、どうか少しでも長く生きてくださればわたしもしあわせです。

 

 

 

皆様の苦しみが少しでもなくなりますよう。

いずれまた更新します、それまでにわたしも生きていけたら良いと思っています。

 

読んでくださり、ありがとうございました。
twitter.com

 

 

生活記録表を持ってメンクリに行った話

お久しぶりです。0mgです。

ブログ、続けるの難しいですね。

毎日更新している日常ブログは何があろうと必死になって日々更新を続けているのですが、何せ誰かの為になる(かもしれない)ことを書くというのが難しくて仕方がない。

 

zzzslp.hatenablog.com

 

あ、ちなみに日常ブログはこれです(宣伝)

 

誰かの為。

わたしは自分のためにすら生きられないのに誰かのためになんて烏滸がましい話だ、と思う。

だからなかなかこっちは更新できないのだ。

考えるにも文章がまとまらなかったりするし。

 

 

閑話休題

 

 

今回はタイトル通り「生活記録表を持ってメンクリに行った話」をしようと思う。

 

この生活記録表、初めて知ったのはわたしがよく閲覧するサイト「メンヘラ.jp」さんの投稿にあった

menhera.jp

この記事がきっかけだ。

カウンセラーと話す時に何をどう話したらいいのか分からず、言いたいことも言えずモヤモヤした気持ちでいつも終わるカウンセリング。それをなんとかしたかったからである。

 

 

ちなみにこのメンヘラ.jpさんにわたしの投稿

menhera.jp

こちらも掲載して貰えたので良かったら見てみて欲しい(二度目の宣伝)

 

 

 

 

話を戻そう。

そもそも生活記録表とは何なのか。

 

生活記録表とは

生活記録表とは簡単な日記のようなもので、日常生活を記録する用紙のこと。

 

 

また、これをつける理由は何なのか。

 

生活記録表をつける理由

生活状況をカウンセラーや主治医が把握するため。

自信の生活リズムを見直すため。

 

 

という訳で書きました。

f:id:s1mzzz:20171014122659j:plain

 

これよりも細かく書くことが出来る用紙があったけれど、わたしの通院頻度が二週間おきであること、見やすさを重視することを理由に

http://electricdoc.net/wp-content/uploads/2017/06/doc_3.pdf

こちらのpdfからダウンロードして印刷し、記入。

 

色は自分で決めて分けました。

具体的には

赤…ぐっすり眠れた

緑…うとうとしていた

青…眠らず床についていた

の三種類。勿論これは自分で好きな配色にしても良い。

 

これを見る限り、わたしは通信制の学校に通っているので日中の睡眠が多いように見受けられる。

理由としては、日中やることがないからだとか不安から少しでも逃避したいだとか考えるのをやめたいだとか、そんな理由。

 

また、このテンプレートには「コメント」という欄がある。

本来の使い方としては睡眠に関して書くべきなのだろうけれど、わたしの場合不眠に悩んでいる訳ではないのでTwitterに呟くかのような感覚でその日の気分や症状、自傷の有無等を書いた。

f:id:s1mzzz:20171014124007j:plain

 

こんな具合だ。

 

このくらい大雑把で良いと思う。逆に細かく書こうとすると、続かない。

完璧主義の人間に大雑把、は難しいかもしれないけれど、前記した通り

Twitterに呟くような感覚」

でいいのだ。

 

それに毎日書こうと奮起する必要もない。

調子が悪い時は書かなくてもいい。

逆に捉えれば、書く余裕が無いほど調子が悪かったとも捉えられる。

 

あくまで自分のペースで、続けられる頻度で、で良いのだ。

 

 

 

 

生活記録表を持ってメンクリに行った

 

さてここからが本題。

今日丁度受診日だったので、これを持ってカウンセリングと主治医との会話をした。

 

結果から話すと、これを持っていくことによってスムーズに会話が成り立つ、ということが証明された。

 

 

部屋に入り、「こんなものを書いてきたんですが…」と紙を差し出し、この内容に沿って話が進められた。

 

「学校にはちゃんと行けているみたいですね」

「自動車学校にも行けたんですか」

オーバードーズはいつしましたか?どのくらいの量を飲みましたか?」

自傷が再発してしまいましたね。何か原因はありますか?」

 

などなど、今までであれば自分から打ち明けにくかった事も紙に書いて見せることによって話を広げ掘り下げて聞いてくれた。これはありがたい。

 

正直、これを見せてもさらっと目を通すだけで今までと同じようなカウンセリングを受けることになるかもしれないと危惧していたが、そんなことはなかった。

 

因みに今のわたしの一番の悩みはこの容姿についてなのだが、それに対してもきちんと話を聞いてくれた。

醜形恐怖症、という診断は出ていないものの、整形をしても満足はしないしどんどん繰り返すことになる、と毎度のごとく言われてきた。

 

そして今回のカウンセリングでこれからの目標を立てた。

通信制、自動車学校ともに卒業すること」

「卒業後は週二回、短時間でもいいのでバイトをしてみること」

 

正直、今の自分には出来るかどうか分からない。

通信制はともかく自動車学校に対しては明らかに恐怖感が出ているし、働いたことのないわたしにはアルバイトでも出来るかという不安が強い。今から考えただけで腹痛がする。

でも、一先ずはこれが目標。頑張れるかどうかはまた別の話だ。

 

 

 

まとめ

生活記録表は、主治医やカウンセラーとのコミュニケーションを円滑に図るためにはとてもいいものだと思った。

病院や医師によって扱いは違うのだろうが、少なくとも今のカウンセリングや主治医との会話に満足していない人には是非一度試して欲しい。

また、自分の生活リズムを見直したりその日の調子を思い出したりするための良いツールにもなると感じる。

生活リズムが乱れているな、一度見直したいなと考えているメンヘラの皆さんにも効果的であろう。

 

 

以上で、今回の生活記録表とそれを持ってメンクリに行ったレポを終わるとする。

 

褒められるのが苦手な話

わたしはどうも、褒められるのが苦手だ。

昔から褒められるとどう返していいのか分からなくて「照れている」と思われがちだったが、照れているわけではなくただ単に苦手なのだ。

 

 

 

前回の記事

s1mzzz.hatenablog.com

 

承認欲求が満たされない、褒められたいと散々喚いておいて苦手だというのは些か申し訳なく思うが、どうしても苦手なのである。しかしその「褒められること」にも素直に嬉しいもの、苦手なものがあるのでまずは例として以下を見て欲しい。

 

 

 

例えば、新しい服を買って友人と遊びに出掛けたとしよう。

「その服可愛いね!」

こう言われたら、貴方ならどう思うだろうか?

 

わたしは嬉しい。

そうだよね、この服可愛いから買ったんだもん嬉しいに決まっている。

この場合、わたしは素直に「ありがとう」「可愛いよね」と言える。事実だから。わざわざ否定することもないと思っている。この場合は、だ。

ここで考えてみると、友人は「わたしの買った服そのもの」と「わたしのセンス」どちらを褒めているのだろうか。

自分だったら、前者だと思う。

つまり、自分が褒められている訳ではなく、身に付けている物や持っている物に対する賞賛は素直に受け取れるのだ。

 

しかしこの言葉に「mgちゃんのセンスいいね!」という言葉が入った場合、わたしは素直に喜べない。

何故なら、わたしが持っている物ではなく「わたし自身」を褒めていることになるからだ。

わたしは自尊心が低い、と自分で思っている。自分を大切に出来ない、自分なんか…と思ってしまう。自分を他人よりずっとずっと下に見ているのだ。

だからこそ、自分が褒められることに対して素直に喜べない。自分が嫌いな自分を褒めるなんて趣味が悪い、何か裏があるんじゃないか、そう思う。

現に女子の言う「可愛い」なんてもう常套句で使い慣らされたものだ。そこに感情が入っていないこともあるし、表では可愛いと言い裏では調子に乗っていると言う、そういうことも少なくない。経験者は語る。

 

 

けれど、だからと言って褒められないのも寂しいものだ。

新しい服、新しいコスメ、変えたメイク、髪型、痩せた自分等々…

これらは信じられないし素直に喜べないことも沢山あるが、それでも褒められたら有難く思うし、褒められなかったら「自分は評価されない人間=価値がない」と思いがちだ。

 

 

面倒臭いな、わたし。

 

 

わたしが褒められて嬉しいものと苦手なものをもう一度おさらいすると、

 

・自分の身につけている物、持っている物(自分以外の物や人等)に対する賞賛は嬉しい

・自分に関すること(性格、容姿等)に対する賞賛は苦手

 

ということになる。わたし以外にもいるのではないだろうか。褒められるの、苦手な人。

 

ここでわたしは考えた。

「どうしたら自分を褒めて貰った時に素直に喜べるのか」

と。

本心で褒めてもらっているのなら、信用できないのも心から喜べないのも相手に申し訳ない。少しでも心の底から嬉しい、と思えるようになりたい。

 

 

結果、自尊心を高めるしかない。

 

 

 

 

それが一番難しいんだよ馬鹿野郎。

承認欲求が消えない話

お久しぶりです、0mgです。0を付けたほうが何となくしっくりきたのでこのまま進化し続けていつかは100mgになれたらいいなと思います(何の話だ)

100mgってなんか、アキラ100%みたいですね。脱ぎません。

 

 

 

さて前置きはこの辺にして。

今日は「承認欲求が消えない」悩みについて相変わらずの持論展開をしていこうと思う。

 

承認欲求…承認欲求とは、他人から認められたいとする感情の総称である。

(Wikipediaより引用)

 

承認欲求。誰しもが持っている欲求の一つだろう。

 

幼稚園児の頃、創作物を綺麗に完成させて先生や家族から「すごいね」「頑張ったね」と言われたかった。

小学生の頃、進んで掃除をして先生に褒められたかった。

社会人になって、お客様から「ありがとう」と言われたいが故に職についた。

 

などなど、程度や形は様々だがどれも承認欲求である。

そしてただ認められたいといっても、その感情にも様々な感情が隠れていると思う。

「褒められたい」「感謝されたい」「評価されたい」

これらも大きく捉えてしまえば、承認欲求の仲間だ。

 

この承認欲求、適度に持っているなら自分を成長させるためのスパイスになるのだが、あまりにも増えすぎると自分で自分の首を絞める事となる。

出たよ適度。適度とか程々って本当に難しいし厄介で面倒臭い。「普通」と同じく人によって程度が違うんだから、自分のものさしで見ても他人からしたら足りなかったり逆に多かったりするから極力使いたくないが、適度は適度なのだ。これ以上の言葉が見つからない。

 

 

 

承認欲求の満たし方には様々な方法がある。

率先して物事をやったり、いい成績をとったり、自分をよく見せたり…その中でもわたしは、Twitter・ブログで承認欲求を満たし、承認欲求に苦しめられている。

Twitterではフォロワーの数は勿論のこと、ツイートにつくいいねの数…特に顔を出しているアカウントでは自撮りのいいね数が本当に本当に自分を一喜一憂させる。

ここで醜形の問題も混じってくるが、どれだけ加工しても、自分とはかけ離れた顔になっても、自分では納得が行っていても、他人から評価されなければ意味がない。何の価値もない。

そしてたまに思ってしまう。

「どうしてこんなに頑張っているのに評価されないんだ」

と。

よくよく考えたら当たり前だ。頑張りの過程なんて他人からは見えない。自撮りだけでなく、この世は殆どが成果主義。要は、結果が全ての世界なのだから。

そんな成果主義の世界で頑張りを見てくれる人間なんて身の周りにはほんの一握りしかいない。それすらいない人もいる。なんて不公平で残酷なんだと思うが、仕方のないこと。自分に何かしら…なんでもいい。容姿でも、文章のキレでも、声の良さや音楽性でも。それらが他より優れていないと、見てくれる人はいない=評価されないということになる。

 

 

現にTwitterでも同じようなことが見受けられる。

 

フォロワーの多い人があげる自撮りとフォロワーの少ない人があげる自撮り。

フォロワーの多い人が紡ぐ言葉とフォロワーの少ない人が紡ぐ言葉。

 

どちらも前者のほうが評価されるのは当然のことだ。目に入る回数、人数が多ければ多いほど有利なのだ。

中には凄く可愛いのに全く評価されていない子や共感できるツイートを多くするのに誰にも見てもらえない、まるで原石のような人もちらほら見られるが、その人達もまた知名度の高い人物に知られ紹介されたら、一気に日の目を見ることができる。

 

ほらね、やっぱり人気者の方が承認欲求を多く満たすことが出来る。

 

とは言っても、その人達にも下積み時代があったのかもしれない。綺麗になるため努力しただとか、出来るだけ考えてツイートしただとか。Twitterにそこまで力を入れる必要もないとは思うが。とにかく、有名人や人気者でも努力していたのかもしれない。

しかしさっきも言った通り、この世は成果主義。そんなもん知らん、評価されて羨ましい、可愛くてずるい、そんなことを思ってしまうのが人間でありわたしだ。

そして当たり前だが、わたしの頑張りも努力も他人からしたらどうでもよくて、知る価値すらないんだ。やってられるかよ、こんなの。

本当は自分で自分を満足させてあげたかった。自分を認めてあげて、他人からの評価を気にするのも程々にしておきたかった。自尊心が低い事が生んだ結果だ。

 

承認欲求が消えない。

承認欲求が満たされない。

 

最近は少しずつブログの閲覧数も増えてきた。ありがとうございます。

しかしそれも日によってバラつきがあるので、一概に嬉しいとは言えない。

Twitterで自撮りをあげる時、ブログの更新をする時には出来るだけ人の多い時間帯にしている。少しでも目に入る回数を増やしたくて必死なのだ。

こんなに頑張っても、なかなか評価されないのが現実。

わたしの実力不足、努力不足。

本来であれば気負わなくてもいい場所だったのが、どんどん承認欲求が増えて抑えきれなくなって、何もかも頑張らなきゃという気持ちになって、自滅する。

いつもそうだ。わたしは0か100しか知らない。中間を知らない。つまり程々、とか適度に、が出来ない人間なんだ。

 

 

認められたい。

 

満たされたい。

 

褒められたい。

 

「もっと評価されるべき」とか言われてみたい。

 

自撮りだけでも可愛いって、綺麗だって沢山言われたい。

 

 

 

 

努力したって報われないんだもん、卑屈にくらいなるしならせてよ。

 

愛されたかった話

いよいよ9月になりましたね。9月は自分の誕生日。生まれた日。死にたいと思って生きるなんて全く想像もつかなかっただろう。生まれてきてごめんなさい。そこそこでいいから幸せが欲しかったしそれも贅沢なら死にたいと思わないような人生でありたかったです。我儘ですか。

 

誕生日。

きっと生まれてきた時は沢山可愛がられたに違いない。愛されたに違いない。記憶にないから実際どうだったのかは不明だが。きっと、そうだと信じたい。

 

 

 

 

わたしの記憶が残っている頃からは、親の喧嘩は日常茶飯事だった。

家族で出掛けるにしても必ず喧嘩喧嘩喧嘩…からの冷戦状態である。

人前ではそういった素振りを一切見せないので現地に着いてからは父親の多少の不機嫌で済んだものの、移動中の車内は本当に最悪だ。今すぐここから出たいとすら覚えた。

おかげで一緒に外出するのは、あまり楽しくなかった記憶しかない。

たまに思い出話で「ここに行った時あれがあって~」「楽しかったよね~」と言われるが、そこへ行くまでの事を覚えていないのかわたし達子どもに気を遣っているのか、喧嘩したことやあまりいい空気でなかったことについては一切触れて来なかったし、わたし達も触れることはなかった。

 

 

そんな状態の家庭で、親に甘えるということを覚えられなかった。喧嘩の光景を見てしまった自分の思考は「親は怖い、怒らせないようにしなければ」だったから。だから、甘えることはできなかったし怒らせたり不機嫌にさせるようなことは今でもできない。

小学校中学校でのテストでも、点数が上がると喜ばれたが下がると怒られた。一応、順位は100人以上居る中でも20~30位程をキープしていたので普通だとは思う。

点数を上げれば上げるほど下がることは許されなかった。

否、許されたかもしれないが怒られるのが怖くて自分自身が許したくなかった。

 

怒られたくない。嫌われたくない。不機嫌にさせたくない。

褒められたい。認められたい。そして一番に愛されたい。

 

この感情で動いていたと思う。頭が良くなりたいだとかの自分の感情は、一切なかった。

結局今は通信に通っているが、その影響か今でもテスト前になると情緒不安定に拍車がかかる。「良い点を取らないと怒られる」がずっと染み付いて消えないのだ。もう怒られないのに。

 

 

現在わたしは一般的なレールで考えると高校を卒業して進学か就職している。実際は未だに高校生だが。それでも、友人と遊びに行くにしても8時頃を過ぎたら父親は不機嫌、不機嫌な父親によって他の人も不機嫌に、のループだからあまり外出する機会はない。

夜の外出だけに過ぎず、父親と母親が二人きりになるのだけは避けたいので自主的に誘いを何かしら理由をつけて断ることだってある。

母親は「もっと外に出ろ」と言うが、基本土曜日は病院で日曜日は学校。平日しか空いていないが平日は知り合いは皆んな学校か仕事。夜しか出かける機会はないのである。まさか日中車も免許もない自分が自転車や自分の足を使って一人で遊びに行けと言っているのかこの人は、と思う。

 

 

 

 

以前の記事でも話したが、兄弟姉妹で真ん中というのは本当に不利だと思う。

s1mzzz.hatenablog.com

 

 長女は長女としての役割があり、それなりに大変だと聞く。子育ての実験台、とも。しかしわたしの姉はそれをバネにして自分で自分なりの生き方を身に着け人生を謳歌している。素晴らしいと思う。わたしだったら出来ないな。でも、夜出歩いて家族の不機嫌を増幅させるのはご遠慮願いたい。自分がいないから良いんじゃなく、責任を取って機嫌を取るのはわたしなのだ。正直かなり迷惑である。

末っ子は甘える術を知っている。甘えて、人の懐に入るのが得意だ。見ていて分かる。何だかんだで一番愛されているのはこの妹なんじゃないかと思う。私立の通信に通わせて貰ったり、家族から離れるために寮生活をさせてもらったり。愛されている自覚があるのかないのかは分からないが、それなのに愛されたいと言うのは何と贅沢なんだろうとたまに思う。

ちなみに何度も言うとおり、二人とも容姿が整っている。姉は美人、妹は可愛い。贔屓目なしでも絶対に誰もが思うだろう。

 

その残りカスとでも言えるような存在、mg。

勉強できない見た目は汚い要領悪くて生きてる意味ない!Yoチェケラ!

 

 

死にたい。

 

 

わたしだって愛されたかった。出来ることならわたしを一番に見て一番に愛して欲しかった。現実問題、優先順位最下位なのだが。

親から愛されたかった気持ちを友人や恋人で埋めようとしても駄目なのだ。親から欲しかった愛情は親しか埋められなかった。代替品など通用しない。形容するなら、穴の空いたコップだ。穴の空いたコップに愛情をいくら注がれても満ち足りることはない

しかも子どもの頃与えられるはずだった愛情、本来受け取るべきタイミングに受け取らないと何の意味もない。ようやく愛されたとしても今となっては「何を今更」と思ってしまうのでやっぱり愛されるべき時に愛されなければ駄目だったんだと思う。後からごめんねと言われても、大好きだよと言われても、認められても、後の祭りだ。

 

わたしは家族が嫌いだ。

今までずっと嫌いになりませんように、嫌いなんて思いませんようにと自分に言い聞かせてきたが、やはり嫌いなものは嫌いなのである。

嫌いというか、憎い。

わたしの人生勿論わたしの責任で自分が選んできた道なのだが、それでもその道を選ばざるを得なくなった原因は家族にもあるのではないのだろうか。

 

完全に責任転嫁でしかない。でも、それでも、愛されたかったこの気持ちは一生埋まらないしこの先愛されても愛情を知らないわたしは愛されていることに自覚できずに愛されたいと嘆くだろうし、文句を言われたとしても「じゃああの時わたしをもっと見て愛してくれよ」といった気持ちになるだろう。

 

 

 

ごめんね、嫌いになってしまってごめんなさい。

 

メンヘラという言葉の話

高校生の時に付き合っていた恋人が友人から「お前の彼女メンヘラだよな」と言われ、ぴゅあぴゅあで純粋だった恋人に「mg、メンヘラって何?」と聞かれた事がある。意味を知らなかったのはありがたいけれど、もう二度と恋人にはそんな思いをさせたくないと感じた経験がある。

 

「メンヘラ」

 

最近よく聞くよね。よく聞いていい言葉じゃないと思うんだけど。

そもそもメンヘラの語源は2chメンタルヘルス板に生息する人だ。この人達を「メンヘル」と呼ぶようになり、ここから英語で~する人、という意味でer形を付け「メンヘラー」、略して今の「メンヘラ」が定着した。

メンタルヘルス。精神面における健康のこと。つまりメンヘラとは元々、精神疾患患者の事を指していたのだろうと思う。

うつ病双極性障害統合失調症…様々な心の病気を抱えた人が所謂「メンヘラ」なら、ただ死にたい人や自傷行為をする人、通院していない人はメンヘラではないのだろうか?

自分の答えとしては、否。

死にたい気持ちは希死念慮といい、希死念慮を持った人間の精神が健康だと誰が言えるだろう。自傷行為を繰り返す人の精神は?通院していなければ、診断名を貰わななければメンヘラとは呼べないのかと言ったら、わたしはそうではないと思う。

 

ただ、TwitterやらのSNS自己紹介欄に診断されてもいない病名をつらつらと書き連ねている人。アレは別だよ、きっと。そんなに病名が気になるのなら病院に行けって話。学生だから~とか親が連れて行ってくれない~とか理由があるのは分かるけれど、じゃあ書くなと常々思っている。メンヘラは幾らでも名乗って構わないので、病名は診断が下されてから病気を名乗ってください。

 

 

言葉は、時代や年が経つに連れて意味が変化してくるものだ。

メンヘラもその一つで、今では精神疾患患者じゃなくても心を病んでいる人を一般的にメンヘラと呼んでいる。そんな傾向がある。

でも、本当はこの言葉はあまりいい意味じゃない。差別用語にすらなり得ることを知ってほしい。わたしのようにメンヘラを自称している人間に言うのならともかく、何も事情を知らない相手に向かって「メンヘラだ」なんて言うのは侮辱に等しいとわたしは思う。新しい言葉を覚えたての子どもかよ、ちょっとは考えて発言しろよ、と。

そして「メンヘラは~」から始められるあの謎理論、信用する必要は全くないからね。メンヘラは自撮りが好きだとかメンヘラはセックスが好きだとか、一部の人はそうかもしれないけれど、それも症状の一つだったりもするし。知識のない、経験もしたことのない人間が語る一般論こそ最も意味のないものだと思う。

 

 

例えば「メンヘラ」とGoogleで検索すると、トップ記事に「メンヘラ女に気をつけろ!」や「隠れメンヘラの特徴」など、メンヘラを差別するような記事ばかりが多くヒットする。

わたしは大声で言いたい。

 

それ、メンヘラじゃなくて構ってちゃんだから

 

と。

メンヘラと構ってちゃんの区別なんて付けづらいものではあるが、メンヘラの語源から考えると「思考や行動が病的である人間」がメンヘラで「かまってほしくて恋人を追い詰めたり自分を大切にしない人」が構ってちゃんなのだと思う。明確には分からないが。

そもそも隠れメンヘラの特徴が「人を噛む」ってなんだよ、それただの性癖だわ。「夜中でも返信が早い」?ただ単に夜更かしが日常的になってるだけかもしれないじゃねえか。

こういった具合に、何も知らない人からしたら意味のない日常的な行動や趣味嗜好までが「メンヘラ」になるのだ。なにこれ面倒くさい。そんなこと言ったらアイドルに恋人いるの?とか送るようなデリカシーのない人間だって病的でメンヘラになる。

 

 

あとメンヘラ=ヤンデレだと思っているのも大概面倒臭い。

メンヘラとヤンデレの区分とかそんなものは一般論だから全員に当てはまる訳でもない。でも好きだから殺したいとか好きだから周りの女を殺したいとか

いやいや、こえーよ。普通に。

それ犯罪だからね?ちょっと言っちゃっただけでも脅迫罪になったりするから気をつけようね?

 

 

自分の価値がメンヘラやヤンデレしかないのはかなしいなぁと思う。

貴女にはもっといい部分がありますよ、素敵なところがありますよ。こういった所で自尊心が低い人にはお世辞どころか馬鹿にされていると思われてしまうんだろうなあ。わたしのことだ。

メンヘラなんてなっていいものでもないし得することだって何もない。メンヘラを自称してしまえば、公表してしまえば、例え自分が忘れても案外周りが覚えている。一生、つきまとうものになる。

 

 

 

 

 

メンヘラに卒業とかないから、入学もしないでください。

寂しい話

雨が降っている。

雨って、寂しくなるよね。音といいコンクリートの濡れた独特の匂いといい、全てが寂しさと虚無感を連れてくる。ついでに気圧の変化で頭痛やら吐き気やらの体調不良も連れてきて厄介だなあと思う。あと湿気で髪が爆発するのも厄介。

農作物や自然にとっては有難い雨で、雨が降らないとわたし達も困るのは分かっているけれど、雨は嫌いだ。

たまにいるよね、「わたし雨って好き」とか言っちゃう人。きっとその人は気圧の変化に強くて、髪もサラサラ癖なんて知らずで、満たされている人なんだと勝手に思う。自分と比べて、落ち込む。これも雨のせいだ。そういうことにさせてくれ。

 

 

寂しさが満たされないのだ。何をしても、誰といても、寂しさが埋まることがない。寂しい、寂しい、さみしい。誰かに縋りたくもなるが、そんな人はいない。わたしはこの寂しさをひとりで飲み込んで消化していくしかないんだ。わたしの人生みたいだな、一人でなんとかしなきゃいけなくて、頼ることが出来なくて、苦手で、ひとりぼっち。

さみしい。

 

 

おやすみプンプン」という漫画がある。わたしはこの作者浅野いにおさんが大好きで、勿論プンプンが好きで他にもソラニンやうみべの女の子も全部大好きだが、今回はプンプンに焦点を当ててみようと思う。

プンプン、良いよね。何か人間の見たくない部分とか目を逸らしている部分をドーンと全面に出してぶつけてくる感じ。台詞の一つ一つがそんな感じある。あと愛子ちゃんが可愛くて、何だかんだでプンプンと愛子ちゃんの青春純愛物語なんだなって。回り道をいっぱいしてもその回り道でさえ全部必要なものだったんだって思った。

そしてこのおやすみプンプンに寂しさに関する台詞があって、

 

「…きっと、あたしがあたしである以上、この寂しさが埋まることはないのよね。」

 

これはプンプンのお母さんの台詞。自分が自分である以上、寂しさは埋まらない。

絶望だ。絶望しかない。

わたしがわたしじゃない誰かにならない限り、この寂しさも虚無感も埋まらないだなんて、生まれながら地獄に居るみたいな感覚に陥る。いや、今までもずっと人生は地獄のような感覚だったが何せわたしは地獄を知らない。

地獄、案外居心地がよかったらどうしよう、そんなんだったら今すぐにでも地獄に行ってしまう。地獄って、閻魔大王だとか◯◯地獄だとかあるけれど、実際行った人誰も居ないよね。これ宗教否定にならないかなあ、大丈夫かなあ。憶測で描かれたものを怖がって人生に縋っているなんて、やっぱりさみしい。皆んなさみしい人生送っていますね。

 

何はともあれ、寂しさを埋めるためには自分じゃ駄目なんだと。このmgという人間では寂しさは埋まらないと。確かに今までのことを考えても恋人が居ても寂しかったし、楽しいことがあった後なんてとてつもない虚無感に襲われたし、人生さみしいで構成されていた気がする。さみしいがわたしの人生なんて、なんてさみしいんだろう。

そろそろさみしいがゲシュタルト崩壊しそう。

 

さみしい。

 

さみしい。

 

さみしい。

 

本当は親に一番に愛されたかったんだ。

わたしは三姉妹の真ん中。上と下とは二歳違い。長女は一番はじめの子どもとあって、愛される。末っ子は何だかんだで可愛がられる。

じゃあ真ん中は?

特に取り柄もなくて、悪いところをかき集めた物体みたいになっちゃって、しかもわたしが生まれて二年もしたら次の子が生まれるから全然構ってなんて貰えなくて。

さみしかった。さみしかったよ。

なんで二番目なんかに生まれてきたんだ、わたしなんて生まれてこなきゃよかったんだって何度思ったことか。姉妹が悪いんじゃない、わたしが悪いんだ。こう思わないと、唯一本音を話せる家族、色々あるけど結局大切だと思ってしまうかぞく、崩れる。壊れる。

わたしが悪くなれば万事解決。さみしさを抱えて、わらって、生きていくしかない。二番目の運命なんだよって、誰かに言われそう。こわいな。

 

 

世の中には所謂メンヘラが沢山いて、病み垢と繋がりたいみたいなタグを見れば自撮りにリストカットに血にポエム画像に、自己顕示欲爆発である。おとなになって、恥ずかしくならなきゃいいけど。メンヘラが黒歴史とか言っちゃわなきゃいいけど。

メンヘラって別にキャラじゃないからね。

bioに病名並べて満足しちゃうような子は勝手にネット恋愛でもして勝手に幸せになってくれればいいと思うよ。

そんな人達が渦巻く界隈、その中の数人を見てみたことがあるけれど、「親ウザい」「心配なんていらない」なんて軽率に言っちゃうんだね。びっくりした、親を簡単に毒親なんて言えるんだ。いいじゃんウザいの。いいじゃん心配されるの。だってそれ愛情だもん。お前愛されてるもん。心配がウザいかもしれないけれど、心配されるだけいいじゃん。

責任転嫁も甚だしい、お前のそれはメンヘラじゃなくてただの厨二病で反抗期だよって言いたい。言わないけど。

きっとこの人達はさみしいを埋めるのもかんたんで、メンヘラ卒業します!なんていつか言っちゃったりするんだ。メンヘラに卒業なんてねえよ。卒業できるようなメンヘラだったらさっさと卒業してくれ、こっちは遊びやキャラ付けのためにメンヘラになった訳じゃないんだよ。卒業できるものならわたしだってしたいよ。

 

 

 

 

皆んな皆んなさみしいんだって思ったけど、世の中そんなにやさしくなかったみたい。